※ 新米(人魚の舞)の完成に伴い「イトーチェーン泉店」さんより販売開始しました。2024正月価格販売です。
その他

「苦しみや悲しみの果てに得たもの」

~別れた悲しみよりも、出会えた喜びと、過ごした時間が宝物になり、生きる力になる~

                   愛島テニスプラザ&畑ッター農場(hatter farm)

                             代 表 畑 山 浩 志

                                     一部順天堂大学「啓友誌 第57号」掲載

人は、出会いと別れを繰り返しながら、迷い・悩み・立ち止まりながら生きて行きます。多くのものを失いながら、大切なものをいつの間にか手にして行きます。

 指導者も多くの苦悩と戦いながら確かなものを求めて、誠実に、堅実に取り組み、着実に実践した時、確実なものが生まれ、真実が見えて来ます。「教育」こそが人の運命を変えられると信じて。負けの運命を勝つ運命に変えられたとき、未来を変えられると信じて今を生きることができる。

  この30年間で分かったことがあります。「出会いが人を変え、環境が人を育て、経験が運命を変える」ということです。

 私は高校時代、脳卒中で8年間寝たきりの祖父の横で介護してきた祖母を心臓病で亡くしました。後を追うように祖父を亡くしたのは県インドア大会の前日のことでした。その日から「人の運命を変えられる方法」を考えるようになりました。大学進学を決めたのも順天堂大学の創立者佐藤泰然氏が「病には、治す前に、罹らないようにする教育が必要だ」と言い、体育学部を作ったことを知り、その言葉との出会いから順天堂大学体育学部健康学科で学び、卒業後、健康教育を行う保健体育教師の道を志しました。また、スポーツの経験から、「勝敗の運命を変えるのは、他人ではなく、自分自身である」ことに気づき、指導者としてスポーツ教育を行う教育者としての道を選びました。しかし、人の運命を変えられない出来事が起きたのでした。今の私を支えている記憶です。

 1.教師の道を志してから初めてのソフトテニス部顧問時、たった一人のソフトテニス三年生部員で、キャプテンを交通事故で失う。絶対無二の一生を知る

 1988(昭和63年)初めて自分が出会ったソフトテニスの顧問をしていました。夢と希望を胸に「やっとスポーツ教育ができる」と思っていました。しかし、理想と現実は掛け離れていました。

 テニスコートは草が生え、摺鉢状になったコートは雨が降った後は池の状態になり、3日間は使える状態ではなかったのです。バックネットは海から来る潮風で腐食し、穴だらけで球拾いに時間がかかりました。生徒は練習に来たり来なかったりで、苦労してまで勝ちたいとは思わず、「楽しければいいんです。」と笑っていました。保護者も「勝っても金にならないから芋掘りをした方がいい」「開港でウニやアワビ取りを手伝ってもらいたい。」と練習は二の次になっていました。

  「本気で勝ちたいと思うものはいないのか」という問いかけにたった一人だけ「俺は負けたくないです。」という2年生がいました。厳しい練習を行えば行うほど、一人、また一人辞めて行きました。最後に残ったのはたった一人だけでした。そこからワンツーワンの部活動が始まりました。コート整備から始まり、周りの土をスコップでコートの中に入れ、コート中央を高くし、水はけを良くしました。外への排水をスムーズにするために側溝を掘り、バックネットは近くの漁師の方から古くなった漁網をもらい針金で丁寧に繋いでいきました。私は「今年は勝てないな」と諦めながら、来年頑張ろうと言い聞かせていました。一冬どんなに寒くてもたった2人で練習を続けました。共に走り共に打ち合いました。いつの日かその生徒は息子のような存在になっていました。

 半年が経ち、コートは一冬で見違えるように蘇りました。

 県総体当日そこにはたった一人の3年生の周りは数人の後輩達がいました。

 試合前に笑顔で「この1年間ラケットを持つ時間よりスコップを持つ時間の方が長かったよ」「そうなんですかありがとうございます。」と後輩たちは礼を言いました。たった一人の先輩は、初心者同様の後輩に囲まれ、手にできたまめを見せながら「ラケットでできたまめよりスコップでできたまめなんだ。この1年間は精一杯やったから悔いがないよ」と誇らしく笑いました。第一試合が始まり練習不足からまた1点また1点と取られて行きました。それでもミスした後輩を笑顔で慰め、やっと取った1点では勝ったかのように喜びました。団体はあっという間に1回戦敗退で終わりました。個人戦は奇跡の一勝を挙げますが2回戦で選手生命が途絶えました。

試合が終わった後も「済みません」と泣く後輩を気遣い笑顔で讃えていました。

 最後に報告会を開き部員全員の前で改めて3年間を振り返って語ってもらいました。

 いつものように照れくさく笑って話していましたが、話していく内に突然涙で崩れました。「やっぱり勝ちたかった。インターハイに行きたかった。」と。

 そして、「1年間 辛かったけれど勝てなかったけれど指導してくださってありがとうございました。」と私に向かって深々と頭を下げました。

 共に過ごした1年間、口では「頑張るぞ。インターハイ行くぞ。」と叱咤激励してきたのですが、「今年は無理だな」とどこかで諦めながら過ごしてきた顧問の前で涙ながらに感謝の言葉を言ってくれました。このとき始めて誰もが「勝ちたい」「インターハイに行きたい」という想いを抱いていることを知り、指導者として失格だったことを知らされました。「先生、卒業したら一緒に飲みたいっす」「そうだな卒業式には飲むか」と冗談を言いながら心地よい風邪に吹かれていました。

 しかし、その約束は二度と果たすことができない出来事が突然襲ってきました。

 バイク事故でガードレールの角に頭部を強打し即死。駆けつけたときにはもうそこには笑顔はありませんでした。このとき絶対無二の一球は絶対無二の一生に繋がることを知りました。

 その後、毎年妻の実家の墓参り後に教え子の眠る場所に立ち寄ることが恒例になりました。いつしか傍らには物心付いた息子が付いてくるようになり、ある日「お父さん、なんでいつもここに来るの」と聞いてきました。幼い息子を膝の上に載せながらゆっくりと語りました。「ここにはね、恵まれない環境の中でも最後まで夢を諦めなかった息子が眠ってるんだよ」と。

 1989(平成元年)二度と選手の可能性を疑うことはしないと誓い、指導者としての再スタートを切りました。その後女子で県新人個人ベスト8、県総体の個人戦でインターハイ決定戦で敗れたものの東北大会決定戦で勝利しベスト10で東北大会出場を成し遂げました。

 1995(平成5年)に強化委員長として、恵まれない環境の整備と「日本一」を掲げ、強化に携わりました。当時「雪国の学校は日本一はできない」とされていた頃で笑いが出たほどでしたが、多くの先生方における努力の結果、1997(平成9年)大阪国体優勝、1999(平成11年)鹿児島国体優勝(佐藤正行監督、中津川澄男コーチ)が成し遂げてくれました。

  私の中では教え子との出会いが、どんな条件の中でも夢を諦めない宮城県を築き、「日本一」という幸運を招いたと思っています。

2.大震災で クラスや部活で関わった多くの教え子を亡くす

 南三陸町志津川は、8年間勤務し、家庭を持ち、二人の息子を授かりました。私にとって第二の故郷でした。その故郷が2011年3月11日、一瞬にして消滅していました。住んでいたところはもとより妻の実家は井戸の口しか残っていませんでした。また、多くの教え子の命を失い、教え子の運命を変えることができませんでした。失った教え子の中に、ソフトテニス部キャプテンがいました。明るくチームを引っ張っていった責任感のある彼は、消防団に所属しており、誰よりも早く港の防潮堤の門を閉めに行き、命を失いました。また、ソフトテニス部の中にもう一人犠牲になっていた教え子がいました。その子は私の息子が幼少の頃に唯一懐いた明るく元気で常に前向きに練習に取り組む優しい子でした。震災当時、私が住んでいたアパートのすぐ後ろにあった老人ホームに勤めていました。その老人ホームは避難指定場所になっており、多くの人がすぐ側にある安全な高台の志津川高校に行かずに、待機していました。そこに津波が襲ってきたのでした。何のすべもなく多くの命が失われていきました。もし、避難指定場所になっていなかったなら、地震後津波到達までの間に十分に避難できる距離に安全な場所がすぐ側にあったことから、多くの人が命を落とさずに済んだ筈でした。

 震災三日後両親を探しに行った日、避難所になっていた志津川高校のグラウンドから海を見つめるクラス担任をした教え子がいました。犠牲になったソフトテニス部女子とクラスメイトで同じ老人ホームに勤めていました。彼女は振り返り私を見つけると、突然走り出し私の胸にしがみつき泣きました。気を落ち着かせると語り始めました。おじいさんとおばあさんを手に取り、逃げている最中に津波が襲ってきたと言うのです。流されている時に近くにあったものに掴まるり助かったのですが、気付くと自分だけが生き残っていたと言うのです。「自然に選ばれた命だから頑張って生きるんだよ」と言い聞かせましたが、別れ際に「先生。私、生きてていいんですか。」そう言い残し去って行きました。その時、命が助かったのに喜べないこの震災は計り知れない傷を残した災害だと言うことを知りました。

3.ボランティア活動と御礼

 海側の大変さを知った私は、順天堂大学のソフトテニス部の先輩や後輩から連絡を頂き、実情を話し、相談すると快く仙台に物資を送っていただくことになりました。自前のマイクロバスを警察から緊急車両に認定して貰い、仙台に届いた支援物資をマイクロバスに乗せ、気落ちしていた父を乗せ、通行止め地域に入り、親戚や教え子の救済に携わりました。その後、順天堂大学から支援物資が届き、順大トレーナーを有志のソフトテニス部員に着せ、順大ジュニア支援隊を結成し、宮城県内の避難所に届けました。特に支援物資が届かない山側や津波を逃れた海側の人たちに届ける活動をしました。その後、多くの方々に広がり、多くの物資が仙台に届きました。県外の多くの高等学校からも物資を送って頂きました。テント、携帯ガスコンロなどの生活必需品から、野菜などの食料品、衣類・文房具などあらゆるものを送っていただきました。

 支援物資は北海道旭川市、青森県青森市、富山県、長野県、埼玉県、群馬県前橋市、千葉県、東京都、愛知県新城市、兵庫県尼崎市、大阪から個人的に送って頂きました。また、富山県入善高校や大阪の多くの高校から送っていただき、大阪市天王寺高校、大阪府東大阪市立日新高校、 大阪府立枚方高校、大阪府立八尾翠翔高校、大阪府立大手前高校、大阪市立咲くやこの花高校、大阪府立八尾翠翔高校、大阪府立大手前高校から多くの物資が届きました。文房具類は主に小中学校に配布致しました。衣類は各避難所に届けましたが、誰の手に渡っているか分からないことからお礼の手紙もできずにいました。この場を借りて御礼申し上げます。あの時のすべての物資はいらないものではなく、日常使っているものが多く、皆様の心温まる気持ちが伝わって参りました。本当にありがとうございました。

4.人生の津波は容赦なく襲う。震災後十年間で多くの大切な人を失う

  震災後、人生の津波は容赦なく襲ってきました。私事ですが、義理の兄は農協勤務しておりましたが原発事故における放射能の影響で肥料が調達できず、朝から晩まで勤務し、8月にくも膜下出血で倒れ、そのまま息を引き取りました。二次災害と思われる死を遂げてしまいました。

 震災とは無関係ですが、当時勤務していた仙台商業高校の同僚で、ソフトテニス部顧問で共に戦った同士であり恩師的存在を癌で失いました。また、強化委員を共に務め、指導者仲間であり、ソフトテニス仲間を突然死で失いました。また、負の連鎖は止まらず、子供がいないことから父同然に過ごし、自作のテニスコート制作時に共に尽力して頂いた叔父を施設のお風呂で溺れて失い、母同然の叔母を預けていた親戚の近隣の老人ホームで孤独死をしていたりと苦しい日々が続きました。

 その後、親子鷹で総体決勝進出したときの親の会の会長であり、親友であった音楽仲間を肝臓の病で失いました。尚且つ、仙台商業高校勤務時のソフトテニス部の教え子を交通事故で失い、退職年度に、同期でありソフトテニスパートナーでありソフトテニス強化仲間であり、指導者として全国選抜優勝を成し遂げた大監督を病気で亡くすなどあまりに苦く辛い出来事が続きました。

  また、津波の被害を受けた教え子の被災後の運命ですが、クラスの生徒で震災当時、家は一階の被害はあったものの家も残り、家族も全員助かり、本人も漁に出ていて助かった筈が、家が残っていたために周りとのトラブルや多くの悩みを抱えて、海へ投身自殺をしていました。また、震災十年後の3月にソフトテニス部員の中に震災で家を無くし、その後多くのものを失い、自らの命を絶っていました。このことからも、津波は海からだけではなく人生の津波は幾度となく押し寄せてきます。その度に自分を守り、人命を繋ぐ術を身につける必要があると思いました。

5.退職後の生き方   三つの柱

 震災で津波被害に遭った両親は、津波に追われながら避難所に逃れて命を繋ぐことができました。その後、陸側の仮設住宅住まいを経て、住み慣れた仮設住宅の近隣に自宅を建て生活して来ました。しかし、父は津波ですべてを失ったことによる精神的負担や糖尿病をはじめ生活習慣病に悩まされ、4年前に2度の脳梗塞を発症、妄想・幻覚に悩まされるようになり、介護施設を利用できなくなり、自宅介護生活を送っていました。その後、震災前に摘出手術を受けていた胃癌の再発が3年前から見られ、骨髄異形成症候群を発症し、週に1度の輸血と点滴で命を繋いできました。実は以前から私が定年を迎えたなら一緒に米作りをする約束をしており、2年前に共に始めるつもりでした。しかし、その頃、父の様態は、体力は衰え、農業は出来る状態ではなく、共に働く夢は成し遂げることは出来ませんでした。何故なら、その後、左上腕悪性黒色腫が発生し、姑息切除を行われたときには、肺・肝臓・リンパに転移しており、2023年1月11日11:47静かに永遠の眠りにつきました。震災の月命日でした。

 このように、健康な食生活と運動習慣が確立できず生活習慣病に悩まされ、十分な医療や福祉施設の活用が難しく、自宅介護の難しさを痛感した私は、安全な食生活の確立や運動習慣の重要性を伝え、健康寿命を延ばすことの大切さと、災害から身を守る事の必要性を伝える事業を行うことをして参りました。

  ① 農業  食の安全に関わる健康教育

 退職後、元保健体育教師として、「安全・安心・健康」をテーマに米作りに携わって参りました。海の茎ワカメを有機肥料に使用し、有機栽培、無農薬に挑戦し、農薬・化学肥料不使用米が完成致しました。品種はひとめぼれで栽培方法が独特であるため、名前を「人魚の舞」としました。震災で多くの方が大切な人を失い、「人魚になってでも蘇えり、また会いたい」そう願っていることを知り、海と陸のコラボレーションから生まれました。

有機栽培や無農薬を行って大きな成果を得たのは、田圃に多くの生物を蘇らせ、米の自然力を引き出し、昨年より株の量が増え、一粒一粒が形が良く一回り大きいお米ができあがりました。しかし、自然との闘いは容易なものではありませんでした。雑草との戦いや暑さ対策の難しさを痛感致しました。その中で人を育てる事と米を育てる事に共通点が多いことが分かりました。言葉にしない植物の場合はより「先見の明」が大切で、準備の重要性を学びました。また、これまで津波、洪水、土砂崩れと水難に悩まされてきた私ですが水の恩恵を受け、自然との共存の大切さを学びました。

   ② スポーツ施設の運営   スポーツ教育の実践 

 2019令和元年12月、震災から8年で崩壊し、スポーツのできない施設に変貌していた名取スポーツパーク(通称ナスパ)を現在所有している松本国際高校から改修工事を依頼され、台風19号の被災を受けた同高校は改修工事を行う費用が出せないと言うことから、ボランティアで改修工事を進めて参りました。それまで廃棄物処理場建設を予定していた場所でしたが、このままスポーツ施設が失われる可能性があった事から、「失われた命は蘇らせることはできないが、施設は自分の手で蘇らせることができる」その言葉を胸に、一冬で蘇らせる挑戦を開始しました。しかし、現実か過酷で震災後8年の歳月は自然の侵食が猛威を振るい、ラインは苔で一本も見えなくなっていた。芝は半分が風でめくれ上がり、全くスポーツができない状態になっていました。また、周りの木はバックネットを破壊しそうになっていたり、窃盗団により金属類はすべて盗まれ、ナイター施設やクラブハウスなど安全には使用できない状態になっていました。

 2020年、愛島テニスプラザをボランティア団体として復活させ、多くの方のボランティア活動を経て、テニスコートの芝を補修し、テニスができるよう状態まで復元しました。テニスポールやネットはかき集め、足りない分は鉄パイプを使用し、半年間の挑戦は何とか12面を平らにし、テニスが辛うじてできるようになりました。

 この二年間で徐々に整備を進め、同時に高校生の強化練習や中学生の個人レッスンなど行って参りました。指導者講習会などの活動も徐々に行い、運動習慣の大切さを伝えて参りました。

    ③ 米販売・講演      防災教育

 確かに、東日本大震災は想定外の災害ではありましたが、教え子の死から分かったことは、守れるはずの命が失われたことに変わりはないと言うことです。スポーツにおいても想定外があったなら負けに繋がりますが、防災においては命に関わることに繋がることから、決して想定外はあってはならないのだと思います。震災遺構が薄れつつある現在、改めて防災教育として確立していく必要性を感じています。未来の子供たちに、決して同じようなことが起きないように、「米山娘(ひとめぼれ)」を通して、防災の重要性を伝えて行く活動として米の販売と同時に防災教育を唱えて参りました。

 また、東日本大震災から学んだこととして、命を守った人は正しい行動選択をしており、正しい判断力や心が命を守る行動に繋がっていたと言うことが上げられます。これらの心と力は日常の生活の中で特にスポーツから生まれるのではないかと思います。そこで、スポーツ教育と防災教育は両輪のようなものとして捉え、「教育は運命を変える」と信じ、この経験を防災に活用して頂くために、12月初め、津波の危険性が高いと言われる大田区北糀谷町民会館で講演を行って参りました。

 内容の一つに、日常生活の中で培い生じた生活習慣から生まれる心や力が未来の運命を変えるのではないかというものです。

  震災から学んだことの一つとして次のことが上げられます。それは、命を守る行動に導いたものは次の5つの心でした。1)信じる心、2)頑張る心、3)諦めない心、4)負けない心、5)流されない心でした。そしてまた命を救った行動は、次の5つの力でした。1)観察力、2)洞察力、3)判断力、4)決断力、5)行動力 です。そして又、命を繋いだものとして上げられるものは次の3つの心でした。 1)思いやる心、2)助け合う心、3)支え合う心です。

これらはスポーツの中で、「命を守った5つの心」「勝利を導く5つの心」として、「命を救った5つの力」「勝利をつかむ5つの力」として、「命を繋いだ3つの心」「チームを作る3つの心」として、育てられるのではないでしょうか

 是非、子供の未来を守るためにも、スポーツ教育の推進と防災教育の普及を是非押し進めて行きたいと思います。

6.震災10年後の運命と決意

   昨年正月、震災10年後に震災被災したソフトテニス部教え子の家族に会いに行ってきました。すべてをなくし、その子の過去の写真も遺影もなかったと聞き、高校時代の写真をデータにしていたのを思い出し、アルバムにして米と一緒に持って行きました。まず、お母さんに会い、「娘を蘇らせるつもりで育てた米と、写真を持って来ました。」と渡すと、10年ぶりの写真での再会は涙が止まりませんでした。その後、旦那様と会って渡した時、「子供が高校生になっているんですが、お母さんの顔を覚えていないんです。」「やっとお母さんの顔を見せることができます。」と写真を握りしめていました。震災はまだ終わっていませんでした。決して災害で失う命はあってはならないことを教えられました。「一人でも多くの命を守り、子供の未来を守り、子供の笑顔を守る」活動を今後とも行っていきたいと思います。

長文失礼いたしました。