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東日本大震災記録

能登半島地震応援メッセージ+東日本大震災の経験記録no.1

東日本大震災記録

能登半島地震での救援活動をしている方々に心から感謝申し上げます。

すぐに駆けつけたい気持ちでいっぱいですが、動きがとれないことから

東日本大震災での経験記録を掲載します。

少しでもお役に立てていただければ幸いです。

能登半島地震応援メッセージ+東日本大震災の経験記録

2024.1.1能登半島地震で多くの大切な人やものを失わないために、少しでも早く、多くの支援をお願い致します。

東日本大震災での経験を記録したものです。何かお役に立てればと思い掲載致します。
2011.3.24
「2011.3.11東日本大震災を経験して」  No.1            
 この度は、多くの方々から励ましの言葉をいただき、誠にありがとうございます。現在の勤務地は仙台の北東部に位置し、大きな被害は免れましたが、被災当初は勤務校の体育館に600人ほどの避難者がおりましたが、今では全員自宅に戻り避難所として閉鎖することができました。
 しかし、海岸線は津波の影響で広範囲にわたり大きな打撃を受け、壊滅的な被害を受けた地域が多く存在しました。
 私の妻の実家は南三陸町の志津川という地域なのですが、死者・行方不明が1万人近くになっていました。 震災が起きた次の日、やっとの思いで自宅に帰り、夕方に電気がつき、テレビをつけた瞬間、目に飛び込んできたのは、今まであった妻の実家が水没している画像が飛び込んできました。何も言わず涙する妻に「約束していたんだから絶対に高台に逃げている筈だ」と慰め、次の日朝早く出発しました。
 海岸線はすべてが崩壊しているため、通行禁止区域が多く、陸側の私の実家から軽トラックに乗り換え、山の中を抜けることにしました。細く荒れた山道を何とか抜けたそこには瓦礫の山が待っていました。瓦礫の中にはどれだけ多くの人が閉じ込められているか分からない状況にもかかわらず、瓦礫の上を越え、泥だらけで滑る道を抜け、やっとの思いで妻の実家の前まで行きました。そこで待っていた光景はなんとすべてが消えていたのです。辛うじて残っていたのは石垣とコンクリートの基礎と井戸の口だけでした。「もうだめだ」と呟き、しゃがみ込む妻に「絶対生きてる」と根拠のない言葉を掛けながら、高台の高校に向かいました。しかし、校門側には夥しい瓦礫が道を塞ぎ、進むことができず家の裏から登る階段に向かって行きました。
 この中で安否を確認するのは至難の業だと思いながら探していたところ、偶然にも救急車に乗る父と劇的な再会を果たしました。その時、津波に追われながら危機一髪で難を逃れたことを知ったのでした。もし数分でも遅れていれば、命はなかったといいます。その後、高台の高校に身を寄せていた母を見つけ、話を聞いたとき、何もかもを失ったことを知りました。「命さえあればそれでいい。」このときこそそう思えた日はありませんでした。
 近所に住む多くの方々が津波にさらわれ、多くの命が失われた現実を知り、複雑な心境のまま、両親を仙台に連れて行こうとしたときです、津波警報が鳴り、来た道は帰れなくなったのです。
 帰る道を探していると、呆然とたたずむ女性がいました。「もしかして」といった瞬間、私を見るなり、「先生!」と言いながらすがりつき震えるように泣き出しました。そこにいたのは20年前に担任をしたクラスの教え子でした。落ち着かせて理由を聞いてみると、高台の学校のすぐ下にある老人福祉施設で働いていたところ地震に襲われ、逃げようとしたとき、避難指定場所になっているから大丈夫だという声で待機していたところ、「津波が来るから逃げろ」と言われ、おじいさんとおばあさんを連れ出したところに津波が押し寄せ、波にのまれたと言いました。その後、何とか近くのものにすがり自分だけが助かったと言いました。その時、クラスメイトでソフトテニス部員の女子生徒が同じ職場で働いていて津波に流され行方不明になったことを知らされました。「自然に選ばれたのだから命を大切にして頑張れよ。」と行ったその時、「先生、私、生きてていいんですか。」そう言って去って行きました。命が助かったにもかかわらず喜べない。逆に罪悪感さえ抱いてしまうこの震災は計り知れない深い傷を残していました。
 その後、何とか山中の獣道を抜け、やっとの思いで脱出することが出来ました。
 今では海岸線地域以外は徐々に普及しており通常の生活は取り戻しつつありますが、気仙沼・本吉・志津川・女川・石巻・塩釜・多賀城・仙台若林区・名取・亘理の地区では家屋を全壊した人がほとんどで、半壊の方も数多くおります。報道でも2週間が経ち、やっと物資が到着したと言われ、安定したかに思われますが、親戚の中には避難所に行かず海にとどまって再建を試みようとしており、個人への物資提供はしないということで、毛布と米や最低限の食は支給されていますが、その他何もない状態の中で、野菜も肉もなく、風呂にも入れず、毎日不安との戦いをしています。
 また、海岸線には報道されない数多くの場所があり、多くの人が悪戦苦闘しています。せめて生活物資だけでも手にすることが出来れば全く違います。
 私は20年前に志津川高校に勤務しており、教え子は数多く被災し、中には消防活動で逸早く水門を閉めようとして津波に飲み込まれ命を落とした者がいます。家も息子も亡くした両親は葬儀すらまともにしてやれないと涙していました。
 物資も精神的援助もされない人たちに少しでも手を差し伸べられればと思い地道な活動をしようと思っています。よろしくお願いします。
 今日は順天堂大学の先輩方や後輩たちから昨日届いた物資と発電機や生活用品を積んで行ってきます。そして、消防活動で亡くなった教え子の両親に会って野菜と高校時代の写真を渡して来ます。家も思い出の品もすべて亡くし、それでも生きて行こうとしています。そうした人たちに直接渡していきたいと思います。
 *2011.3.23、24到着物資*
富山県からテント・コンロ・野菜など、千葉県から野菜など、長野県食料品・お茶・日用品など、長野県から食料品・日用品など、本当にありがとうございます。

当時の3.11後の志津川の様子です。