※ 新米(人魚の舞)の完成に伴い「イトーチェーン泉店」さんより販売開始しました。2024正月価格販売です。

人魚の舞と防災

人魚の舞と防災

 私が8年間勤務した志津川高等学校は海側の南三陸志津川町にありました。私にとって第二の故郷となったその地は、あの東日本大震災によって一瞬にして消えていました。震災3日後向かった先には多くのものを失っていました。多くの教え子が犠牲となった中に、勤務当時に過ごしたソフトテニス部の教え子も入っていました。私の息子が幼少の頃に唯一懐いたその子は、明るく元気で常に前向きに練習に取り組む優しい子でした。その子は震災当時、私が住んでいたアパートのすぐ後ろにあった老人ホームに勤めていました。その老人ホームは避難指定場所になっていたため、多くの人がすぐ側にある安全な高台の志津川高校に行かず、待機してしまっていました。そこに津波が襲ってきたのです。何のすべもなく多くの命が失われて行きました。もし、避難指定場所になっていなかったなら地震後津波到達までの間に十分に避難できる距離に安全な場所がすぐ側にあったのですから、多くの人が命を落とさずに済んだ筈です。確かに、東日本大震災は想定外の災害ではありましたが、守れるはずの命が失われたことに変わりはありません。スポーツにおいても想定外があったなら負けに繋がりますが、防災においては命に関わることに繋がることから、決して想定外はあってはならないのではないでしょうか。震災遺構が薄れつつある現在、改めて防災教育として確立していく必要性を感じています。未来の子供たちに、決して同じようなことが起きないように、この「人魚の舞」を通して、防災の重要性を伝えて行きたいと思っています。

 退職と同時に人作りから米作りに転職

「教育は運命を変える」と信じて教師の道を歩んで来ましたが、震災で多くの教え子を失い、多くの命を救えなかったことから退職と同時に、「生きる」ことの意味と、「育てる」ことの意味を、日本の主食である米を育てることで、見つめ直して来ました。

10年ぶりの再会

2022年正月、震災10年後に震災で被災したソフトテニス部教え子の家族に会いに行きました。すべてをなくし、教え子の過去の写真もなく、遺影も出来なかったと聞き、高校時代の写真をデータにしていたのを思い出し、アルバムにして米と一緒に持って行きました。まず、お母さんに会い、「娘を蘇らせるつもりで育てた米と、写真を持って来ました。」と渡すと、「娘のものは何も残って残っていなかったんです。」と言いながら10年ぶりの我が子との再会に涙が止まりませんでした。その後、教え子の旦那様と会って、同じようにアルバムと米を渡しました。その時、「子供が高校生になっているんですが、お母さんの顔を覚えていないんです。」「やっとお母さんの顔を見せることができます。」と10年ぶりの写真での再会は涙の中に大切なものを呼び戻してくれました。震災はまだ終わっていませんでした。

海のものを使用した米作りに挑戦 震災13回忌に完成

教え子の家族との再会を果たした私は、教え子を蘇らせる「思い」だけで作る米作りから、栽培方法を変えることで本当の意味での米作りに着手しました。海側のものを使用しての有機栽培での米作りです。誰もが安心して食べられ、健康で長生きが出来る米を目指して栽培に取り組みました。そして、震災13回忌の年に多くの試行錯誤を重ねながら、茎ワカメを使用することでミネラル豊富なお米が出来上がりました。

世界規模のパンデミックを経験して

辛い日常生活を強いられている現在、多くの方がコロナ禍に翻弄される生活を送っていると思います。特に医療従事者の皆様方においては大変な毎日を送っていることと存じ、感謝申し上げます。

過去にも一瞬にしてすべてを失い、途方に暮れたことがありました。それでも生きようと思えたのは「人の温もりを感じられたから」と言っても過言ではございません。人と人が手を繋いでこそ「多くの困難を乗り越えられた」という経験をしたからこそ言えることではないでしょうか。一粒一粒が寄り添っているからこそご飯として美味しく食べられるのと同様に、人も誰もが必要な人であり、一人一人が寄り添ってこそ生きる力を発揮できるということを信じてこの危機を乗り越えていければと思っています。

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